鍋島家第4代 鍋島吉茂公
戒名 法性院殿徒嚴良勇大居士
第4代 鍋島吉茂 なべしま・よししげ
寛文4年-享保15年(1664-1730)
2代藩主鍋島光茂の二男で、はじめ神代家を相続し、直利と名乗る。宝永2年(1705)、兄で3代藩主綱茂の養子となり宝永4年(1707)に家督を相続し4代佐賀藩主となる。室は神代直長娘の土(心樹院/1664-94)。財政難のなか、宝永4年に3代綱茂が造営した観頤荘(かんいそう)を破却し財政改革に取り組む。十五組の軍組織を整備し、石火矢の量産や台場築造計画など長崎警備に力を入れた。年譜類の編纂事業を行う。享保11年(1726)に火災で佐賀城が焼失。従四位下侍従丹後守に叙せられる。法名は法性院殿健巌良勇大居士。側室との子である左膳が6歳で没したことなどから、神代家当主となっていた弟の宗茂を嫡子とした。(以上 徴古館HPより)
鍋島家第4代 鍋島吉茂公ご側室 志岐良津様
戒名 圓性院大雲淨虚大姉
吉茂公と良津様との間には、左膳様がお生まれになりましたが、6歳でお亡くなりになったため、神代家当主であった吉茂公の弟の宗茂公が嫡子となられています。
佐賀県近世資料-第1編第4巻-には、吉茂公譜が収められています。そのなかには、ご側室であった 志岐良津様についての記述もみられます。
元禄十五年(1702年)壬午 公御歳三十九 一二月十二日、左膳殿出生(妾腹 手明鑓 志岐新五衛門 娘 良津)
宝永四年(1707年)二月十一日、御城ヘ移ラセラレ、鍋島左膳様ト称セラル
附、右 良津女 享保九年(1724年)辰五月十日死去 圓性院 佐嘉郡上下村 妙誓寺ニ葬ル、墓所ニ畝六歩、門前馬場幅一間二尺長三十五間除地ニ仰付ラル、其他御寄附物アリ
小城鍋島家 第5代 鍋島直英公
戒名 圓覚院殿錦山淨高大居士
小城鍋島家 第5代 鍋島直英公ご正室
戒名 本良院殿貞好浄貴大師
小城鍋島家第6代 鍋島直員公
戒名 法眼院殿黙然浄一大居士
鍋島家略系図